語彙力の話。
大前提として、語彙力はあればあるに越したことはない。
無知は誇るものではなく恥じるものであるという前置きをここにしておいてから…。
語彙力ってあればあるだけ良いかと言われれば、自分はちょっとだけ懐疑的。
例えばの話なのですが、前に書いた「懐疑的」という言葉。
読書とかしている人からしてみれば、スルッと読めると思うのですが、あまり活字を嗜まない方からしてみれば、一瞬「ん?」と立ち止まるタイプの言葉だと思います。
書き直すとすれば「自分はちょっとだけ疑っている」の方が、スルッと読める言葉だと思います。
個人的には言葉のリズムやニュアンス的に「懐疑的」の方が、好ましいのでこの単語を使ったのですが、わかりやすい文章にしなさいと言われれば「疑っている」の方が好ましいと思う。
以前、小説を書く友人と話していた時に友人に「良い文章とは何だ?」と尋ねたことがありました。
その時、友人は「意味が正しく伝わることが、良い文章だ」と答えた。
なるほど確かに。
また別の小説を書く友人の作品を拝読させていただいたこともあったが、非常に難しい漢字・単語が並んでおり、思わず「椎名林檎かい!」と突っ込んだことがあった。
確かに文字としては漢字のもつかっこよさや難しい言葉を使っているというインテリジェンスは魅力的ではあるものの、読み進めるのにエネルギーを使うし、文字を追うので精一杯で状況や情景が頭に入ってこなかった。
児童文学というジャンルがあるが、あれなどは子供でも活字に慣れ親しんでもらえるように、非常にわかりやすい言葉を用いて文章が構成されている。(素人考えではあるものの)先の「意味が正しく伝わること」を良い文章とするならば、おおよそこちらの文章の方が、良い文章となるだろう。
そして、難しい語彙や単語を使わない方が、その「意味が正しく伝わること」のハードルは下がる。
…となると、語彙力があればあるだけ良いというのはどうなのだろうか?
よく「IQが20以上違うと会話が成立しない」という話も聞くが、語彙の量によって「会話が成立しない=伝わらない」という現象が起きてしまうのでは、せっかくの語彙があっても宝の持ち腐れなのではないかなと思ってしまう。そうなると、ふんだんな語彙をオードブルのように展開するよりは、一般的な語彙でお互いに意味を理解し合いながら会話を成立させられた方が、良いのではないかと思う。
と、まずは語彙はそんなに多くなくて良いんじゃないかという論を展開しつつも、この論には2点の注意点がある。
一つは「お互いが専門用語を成立できる環境」かどうかと、もう一つは「必ずしも魅力的な文章かどうかは別」という点。
1つ目は、わたくしなんかは割と専門用語が横行する環境に普段忍んでいるので「あと10分でMTG」とか「今回の構成RDSとS3いる?」みたいな会話でも成立することがある。知らん人からしてみれば、全部マジック・ザ・ギャザリングの専門用語に聞こえるでしょう。
このように、専門用語が当たり前のように成立することを前提としている(むしろ伝わらない方が問題の)環境においては「誰でも伝わる文章」という定義が「ここにいる誰でも伝わる文章」に変わってしまう。
つまり、誰に当てた文章なのかで使うべき語彙は変わるのである。
2つ目の「必ずしも魅力的な文章かどうかは別」という点。
先ほどのように児童文学が正しいとしてしまうならば、ノーベル文学賞はおおよそ児童文学で埋まるだろう。しかし、そうではない。
ボブ・ディランがノーベル文学賞をとる時代なのだ。多少言葉を曖昧にしても「答えは風に吹いている。」とした方が文章として魅力的なのである。
先ほども書いたように、友人の書いた小説は読みにくかったので駄文かと言われれば、そんなわけがない。
文字として漢字のもつかっこよさや難しい言葉を使っているというインテリジェンスは魅力があるし、そこには音のフローや言い回し。言葉としてのリズムなどがある。
それらが心地よく作用し、意味が多少伝わりにくくても言葉として音としてリズムとして魅力的な文章だって存在するし、ヒップホップなどに代表されるような音とリズムによる美しい言葉の表現は大変魅力的である。ライムスターばっかり聴いているけど。
言葉や語彙っていうのは、相応しい場に相応しい言葉を相応しいフロウとリズムで載せられるかなのかなと思う。もちろん、語彙が多ければ多いほど、その相応しい場に繰り出す相応しい言葉を取り出せる。
しかし、相応しい場・相応しい言葉であったとしてもフロウやリズムが悪ければ、上滑りするし、相応しい場に相応しいフロウではめれたとしても、相応しい言葉でなければ、駄々滑りである。
もちろん相応しい場ですらないのであれば、もはや邪魔だ。
言霊という言葉があるように、言葉は生き物である。魚が水の中でしか生きられないように、言葉にも相応しい場所があるし、ドレスコードのように相応しい言葉があり、デートの待ち合わせの時間のように、相応しいタイミングがあるのだ。
「横文字使えばカッコいいと思ってるんだろ!」とついつい思ってしまうこともあるが、相応しい言葉に相応しい自分になる努力も必要である。
言葉はいつ、どこで誰に伝えるかに合わせて、相応しい姿に着飾ってあげるべきである。
大事なのは語彙力の多さではなく、その相応しい場を見定め、その場に相応しい言葉を選べる力なのかもしれない。
そして、時には言葉を茶化して遊ぶのも、また楽しみの一つである。
どっとはらい。