精霊馬

No Image

今はもう亡き親戚に写真が趣味の人がいて、親戚の家に行くとフィルムが山ほど転がっている部屋があるという家だった。
時々、写真展とかにも出品していたり、交友関係のある人に写真を送ったりしていた。
残念ながら、自分がカメラを持つ頃には、その人は亡くなっていたし、その人の家族はどちらかといえば写真を撮りに朝な夕な家を空けるその人にあまりいい印象は持っておらず、亡くなったタイミングでカメラ機材は早々に売り、捨てたりしていたらしい。
そうして月日は経って、何の因果か自分もカメラを持ってレンズを覗いてシャッターを切るようになると、亡くなったその人の写真の凄さに気づく。
家族は「あの人はいつも家にいない。日の出と共に家を出て、夜遅くに帰ってくる。帰るや否やずっと自室に閉じこもって現象しているもんだから、休みに顔を見たことない」と文句を言っていたが、確かにその時間でなければ撮れない写真ばかりだし、その一瞬を撮るためにどれほどの試行錯誤を経ていたのかと考えると頭が上がらないものがある。
残念ながら自分は、まだ写真に対してそこまでの情熱を持って向き合っていないし、そうなるということは、「あいつはいつも家におらず、日の出と共に家を出て、夜遅くに帰り、帰るや否や現象に勤しんでいる」と陰口を叩かれる覚悟をしなければならないのだと、その人の周囲の声を聞いてそう思う。
あまりいい噂を聞かない「撮り鉄」という人たちも、その一瞬のために準備をし、遠く離れた場所であっても駆けつけてくるのだと思うと、その点では頭が上がらないものがある。(もちろん迷惑をかける行為等は駄目だとはいう前提で)

反面、InstagramやSNSの発展と、iPhoneやスマホなどのカメラアプリの発達により、当たり前のように加工、修正ができる時代でもある。
いまや一眼レフそのものにもそういった機能が付いていることから、完全な無加工というのも難しい話だし、色々な考え方や派閥があると思う。なんだってそうだ。
そして良いとされるのは、彩度が高く、盛(加工されまく)った写真だったりする。

もちろん、それが悪いことではないと思うし、
自分も写真を撮った後はRAWデータの色味を調整していて「これ彩度高い方が画面のコントラストが強くなって、いい写真ぽく見えるな」と思って、彩度を強めることがある。

ただ、その行為の前に、もっとできる準備はあっただろうとは思う。
「人事を尽くして天命を待つ」そしてその上で、さらなる高みを目指すための「調整」。
本来当たり前のことだが、便利になった時代、そこまでの時間をかける情熱を持って向き合えるものだろうか。

お盆を前にフィルムカメラで撮ったであろう親戚の写真を思いだせば、カメラに情熱を捧ぐということを少し思うのであった。

特にオチもなく。